四天王寺の古本まつりで表紙の絵に惹きつけられて買った1冊の絵本
(その店は1冊400円、3冊で1000円という店だったので、ほかにもなんかないか?と絵本ばかりをかなり漁った)
グリム童話「ミリー」について書きたい。
深く考えさせられ、感銘を受けた…。
母と子の死を超える愛の物語だから母の日に投稿してもよかったけれど、その日はコンサートに行ってそれどころじゃないから。
<天使にであった女の子のお話>という副題がつく。
あとがきによると、この物語は1816年にグリムが、母を亡くした少女ミリーに宛てた手紙に添えられていたのだという。その後、この物語は少女の一家が所有していたが1974年に売却され、1983年に出版社の手に渡り、1988年に初めて日の目を見たという。
…172年の歳月を経て出版って!(売却って、一体いくらで?と、ちょっと気になる)
物語はミリーへの手紙で始まる。
<心は、なにものにもへだてられることなく、ほかの人の心にまでとどきます。ですから、わたしの心も、あなたの心にとどきます。わたしはまだ、あなたに会ってはいませんけれど、わたしの心はあなたのそばにいて、わたしの愛をつたえてくれるのです>
という部分が印象的。
ざっと、こんな話。
夫を亡くした女性が幼い娘と二人で暮らしている。
ほかにも子どもはいたが、次々に亡くし、今はその娘ひとりだけ。
女性は娘を大切にしていて、娘も良い子で、その子のすることはなんでもうまくいって、女性はきっと娘には守護天使がついて下さっているのだと思っていた。
しかし戦争が起きて、母と娘の幸せな暮らしは長く続かない。
母は娘を守るために、娘を森の奥へ逃がすことにして、3日経ったら、戻っておいでという。
女の子は守護天使に守られ、導かれながら森の奥へと進み、一軒の家にたどり着く。そこにはおじいさんが住んでいて、その人は幼子のイエスをお世話をした聖ヨゼフだった。
その聖ヨゼフの前では、女の子の守護天使も姿を現し、一緒に遊んだりするが、やがて3日経って、お母さんのところへお帰りといわれる。
そうして女の子が自分の村へ帰ると、戦争で荒廃した様子はなかったが、見慣れない様子に変わっていた。自分の家も見つけられたが、家の戸口のこしかけに、たいへん年を取ったおばあさんが座っていた。
おばあさんは娘が帰ってきたと喜ぶのだった。
女の子が聖ヨゼフと森で暮らした3日は実は30年だった…その夜、母と娘は楽しく過ごすが、翌朝には二人とも死んでいた…。
浦島太郎のような時間の経過というオチにびっくりしたが、それで、本当によかったの…?と思った。
女の子は戦争の恐ろしさを知らずに、傷つくこともなく、母親の望み通りにはなったが
本当にそれでいいのかと…。
娘は幼いまま死んでゆく…。
戦争に巻き込まれても、一緒にいたほうが良かったんじゃないか、とか?
作中にも出てくるけど、森へ逃がしたからって安全とは限らず、けものにくわれるという危険もある。
何が幸せなのか?
あんまり理想的な聖なる物語、という気がする。
同じ店でもう一冊、同じく絵に惹かれて買った「いばらひめ」。
「眠れる森の美女」のタイトルのほうが馴染みがあるけれど。
姫だけでなく、王様やお妃さまや、召使いも動物も、物も、み~んな動きを止めて、100年眠る?眠るだけ?
この物語からは一体、何を読み取ればいいんだろう?
お皿が一枚足りないからって、一人だけ除け者にしちゃいけないっていう教訓…?笑
この表紙の絵の、一番左端の黒い仙女がお皿が足りないからって除け者にされて呪いをかけた。