浪漫草紙

~生れる前の昔恋しき~

有吉佐和子作品にみる古風な和歌山弁

「非色」も「身がわり」も読んで、その後、「紀ノ川」も読みたくなって、久しぶりに今、読んでいる。

名作なのはいうまでもないけれど、わたしはこの作品に出てくる古めかしい和歌山弁(紀州弁というべきか)に心惹かれ、郷愁を感じ、しみじみしてしまう。
読書はいい…心荒むと本の世界へ逃げ込む、ほかのことを考えなくて済むし、癒し、慰めにもなる。古風な和歌山弁に癒された話。

久世さんの昭和初期が舞台の小説で死語となった言葉が生き生きと使われているのが魅力的と前に書いたが、方言だって、死語というか、今じゃ誰もそんな風には話さないというのが多い。

物語は明治30年年代から始まる。
古風な和歌山弁の代表例?は<~のし>という語尾をつけることだと思うが、それはさすがに聞いたことはないけれど、作中では「そうでございますのし」などと女性の丁寧語として出てくる。

どの辺に郷愁を感じるかって、たとえば、こんなん。
<豊乃>の一人称は<私>だが、ルビは<わたえ>となっている。
わたえ…あぁ~、おばあちゃんがそんな風にいうてたな~、わたいともいうてたな…とか思って懐かしくなる。
別の人物では、<私>で<あたえ>や<あて>になっていたりもする。
関西弁の女性の一人称の違い、それも面白いところ。
<美っつい>というのも、いうてたな…美しいが縮まって、うっつい…いうてたわ…と、なんか思い出す、あれは何に対していうてたんだっけ…。
<大事(だん)ない>…「だんないえ」もいうてたな…そのまま大事ない、大丈夫という意味だが、「だんない、だんない」という言い方が好き。
「紀ノ川」を読んで、昔々、おばあちゃんや親戚のおばはんとかが、こんな風に喋ってたな…という記憶と、あの人この人の面影が甦ってくるよう…といってもいいが、それは何も好感を持って懐かしむことばかりじゃない。
古めかしい言葉を話す人々…に、昔は良い印象を持ってはいなかったし、一定の距離を置いていた気もする。

最近(って3月だった)、BS松竹東急で、高峰秀子特集かなんかで「華岡青洲の妻」を見たけれど、あれでもグッとくる台詞があった。
<加恵>が子どもの頃に<於継>の姿を見るために、こっそり華岡家にやって来たことがあったと話すシーン、
そこで<於継>は「なんしによ」と可笑しそうにいう。
<なんしによ>…いいな…なんか知らんけど、心惹かれる…なんやろう?何か慈愛のようなものを感じる?

「紀ノ川」と並行して、玉青さんの「ルコネサンス」というのも図書館で借りて読んでいる。自伝的フィクションということで、気になって借りたけれど、凄く分厚い、遅読なわたしが期限内に読み切れるだろうかというぐらい分厚い。