浪漫草紙

~生れる前の昔恋しき~

最近、機種変をしたスマホで撮った紫陽花。

カメラや画面の性能が良いらしいというのに期待していたが、描写力はどんなもんか?

紫陽花は紫から青へと移りゆくものなんだろうか。

タイトルは無題だが、熱病の果ての虚脱状態だの、拗らせ女の独り言だの、拗れた恋文とか或る阿呆の頭の中とか…なんでもいい…。

こんなことは書くべきでないと思っていたが、吐き出さずにはいられない拗れた心情を吐露することにする。これもまことの心…!

このところのわたしは麗子さまに対する<好き>を拗らせていた。
…お前はこんな人に対しても拗らせるのか…と我ながら呆れる。
<こんな人>というのは、その…アイドルとか有名芸能人でもないのに、という意味にしておく。
熱病の果ての虚脱状態にいたけれど、果てから、なんとか帰還し、平常心を取り戻せたこの頃。

わたしのいう<好き>を拗らせたとは一体どんな状況だったのかというと、麗子さまに関する一切を見ることができなくなった。
見ることができなく…というのは、もちろん、時間がなくて見られないのではなく、気持ちの問題。
これは決して、あまりに見過ぎて飽きたとか嫌になったということじゃない。
好きすぎて見られないといっていいが(←阿呆)あれほど見ていたYoutubeもブログも見るのがつらくなってしまった。(特にコメント)
DVDもテレビの録画も麗子さまの歌っている映像を見られなくなってしまった。
見るのも聞くのもつらい、苦しい…そんな状況。
晶子さんじゃないが<悲しといふを少し越え苦しと云はば人怪しまん>そんな歌を詠みたい気分だった。(←阿呆)

歌をうっとり素直に聞いていた頃に戻りたいというよりは、存在を知らなかった頃に戻りたい、そんな気分だった。

わたしはただ歌を聞きたいだけで、ネット上の本人の発信とか他のファンの動向には興味は持たないほうがいいのだと自分に言い聞かせた。余計なことは知りたくない。
そんなものは見ないでも生きてゆけるし、見ないほうが心穏やかでいられる。
愛の反対語は無関心だというが、わたしは無関心を装うことに努めていた。
これ以上、関心を持っては心乱れるだけ。
心を乱すのはエネルギーの無駄遣いで、まず最優先すべきは自分の心の安定だと、とにかく心乱すものを見ないようにしていた。

拗れた思考回路はこんな屁理屈をも捻り出す。
わたしが好きなのは、所詮、わたしの頭の中のイメージに過ぎない、わたしの頭の中にしか存在しない人で、生身のあの人とは別の存在なのだという。

先日のジャズ・ライブで、麗子さまを楽器に例えるならベースだなと思った。

そうして見ないでいた期間はとても長く感じられた。虚無だった。
で、帰還した今はどうかって…音声だけならYouTubeで歌が聞ける…インスタはストーリー見るだけなら…でも、メインで歌う映像もブログもまだ見る気になれない…という、わけわからん状態。平常心の維持に重きを置きたい状態。

もうわたしは、この特殊な性質をネタにした私小説でも書くほかあるまいて。(なんやそれ)

 

<6/19追記>

…麗子さまからストーリーのコメントに返信もらったのが(スタンプでリアクションもらえるだけでも嬉しいのに文章で返ってきて、びっくりした)特効薬あるいはカンフル剤?となって、拗らせが快方に向かいつつあるが…単純…そんなカンフル剤など、いつも与えてもらえるものではない。
そこでわたしは改めて自分に言い聞かすことにしたんである。

ただ事実のみを見よ、
あらゆる期待も絶望も妄想である。

自分に見える事実だけを…ほかの人のことは、どうでもいい…推測も妄想。でも、ストーリーは他の人のコメントが見えなくていい、と思ってしまう。

この件に関してだけは、視野を狭めることも大事だと思った。広角で見ようとするから、余計なものが気になる。

それに、「宵待草」の時、

この動画と、夕べ、アップされた時の昂奮を思い出せば、もうこの先、何もいいことなかったとしても耐えられそうと思うほどの喜び。

と書いたのを忘れたわけじゃないが、本当にその通りだと思った…。あれは有り難いことだった…。